固定概念
正しく見るためには、「これこそだ」と何かの意見にとらわれないことと、固定概念を捨てることが大切です。 その上で、客観的に見てみるのです。 何を見 るのかというと、まず自分を観察するのです。 「生きるという ことはどういうことなのか」「自分とは何なのか」とまず理解す る。 そこから始まるのです。 悟りへの道は、「悟るぞ」「煩悩をなくすぞ」と力むのではなく、「自分と は何なのか」と正直に見ることが第一歩なのです。 たとえば怠けていたら、単純 に、「あ、私に怠けがある」と見る。 それだけでいいので す。 「ああとんでもない、こんなことではダメだ、ダメだ」などと考えたり、妄想することはいり ません。 自分が怠け者であることを認めずに、どこかで「自分の嫌な面を消してやろう、消してやろう」と思ってしまう。 それは逆 効果なのです。 怠けが 出たら「怠け」、怒りが出たら「怒り」と、感情を置いておいて、ありのままに見るのです。 そして、できるだけ細かいところまで観察するようにしていきま す。 それで初めて「なるほど、こんなものか」とわかってくるのです。 「生きることはdukkha(ドゥッカ:苦)だよ」とわかるのです。 よく見る と、「自分」は一瞬たりとも固定していない。 安定していな い。 ものすごい速さで変化していく。 「すべてはどんどん変化する、何にしがみついていても 虚しい、結局はどうということはない、すべてはdukkha(苦)だ」とわかる。 それが正見です。
パー リ語仏教用語集『ARIYA ATTANGIKA MAGGA(アリヤ アッタンギカ マッガ):八正道』
少しだけ理論的に説明します。 「気づき」のない状態を「聞くこと」を例に考えてみましょう。私たちは普通、自分の感情や固定概念
で、聞いたこと(音)を瞬時に判断して解釈しています。 耳に音が入った瞬間に「気持ちのいい音楽だ」「上司がまた怒っている」などと解釈し、 サッと気持ちがよくなったり、イヤになったりします。そのように、 「聞くこと」によって煩悩(欲・怒り・無知)が有無を言わさず生じてしまうのです。感覚の対象(この場合は音)によって、心がいいように操られているので す。音に「怒りなさい」と命令されると怒る。「執着しなさい」と命令されると執着する。音の奴隷状態です。音だけではありません。「見るもの・音・匂い・ 味・皮膚感覚・妄想や思考」という六つの感覚器官から入る情報に、私たちは命令され、支配されています。そしてそれによって自分の心を煩悩で汚すという不 善をなし、知らないうちに悪業をつくりつづける羽目に陥っています。その不善の道を善の道に変えるのが、sati (気づき)なのです。正しく気づくことによって、欲や怒りを止め、最終的には煩悩が生じない状態にまでもっていくのです。
パー リ語仏教用語集『ARIYA ATTANGIKA MAGGA(アリヤ アッタンギカ マッガ):八正道』
世尊は〔答えた〕「虚構(戯論:分別妄想)の 名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、智慧によって、破壊するように。何であれ、内 に、渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くため、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。
スッタニパータ 916