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《欲のグループ》

@⇒六処(眼耳鼻舌身意)によって得られた情報を受け入れるはたらき。 仏教では、「世の中には美しいものがある、きれいな音がある、おいしい 食べ物がある」と見るのではなく、「生命は生命の感覚器官にぶつかる情報に対して どういう態度を取っているのか」ということを見ます。ある生命がある味を受け入れる場合は、その味に対して欲を作る、つまりその味覚に対してローバ(貪) という心所が生じている、と見るのです。
       貪(ローバ)は巨大な心所です。生命は自動的に自分が好むことをしようと、欲で行動するからです。食べたいから食べる。見たいから見る。聞きたいから聞 く。考えたいから考える。妄想したいから妄想する。寝たいから寝る。それらすべての行為に貪という心所がはたらいています。ですから心所の中で私たちにい ちばんなじんでいる不善心所は貪なのです。私たちにとってローバはあまりにも普通の心所であり、普通であるだけにとても捨てにくい不善心所です。「おかげ さまで欲のない生活をしております」などと言う人でも、真に不貪の生活をしている人はめったにいません。
       何かを見たり聞いたりして「きれいだな」「いいな」と好ま しく思った瞬間に、すでにローバは生じています。そういう感情は自動的にあらわれますから、 「欲のない生活」というのはそれほど簡単なことではありません。無常を完全に理解していないと、対象に対して真にクールな心は生まれないのです。
A⇒邪見。間違っている考え方にしがみつくはたらき。 見は「これこそ正しい思想だ」「これこそ私の道だ」などと、間違った考 え方にしがみつくことです。誰かが反対意見を言っても耳を貸そうとしません。見は 愚かさ(モーハ:痴)と似ているようですが、モーハは本来的な愚かさで、ものの真の姿が見えないことです。ディッティは特定の何か間違った考えを気に入っ て、「これこそ正しい」と決めつけてしまうのです。ディッティ(見)がはたらくと心の自由はなくなって、心は小さく狭くなります。
       人が「これが正しい」と決めつける(ディッティ)場合は、欲(ローバ)で決めています。ですから見と貪は同時にはたらきます。 ローバ(貪)は気に入ったものを受け入れること。ディッティ(見)は受け入れるだけではなく、きつくしがみついてしまうことです。
       
B⇒「私」という概念を規準に、他と比べたり計ったりするはたらき。 人は六処(眼耳鼻舌身意)によって「私は見た」「私は聞いた」と「私」 という概念をつくり出します。そしてその「私」という思いが生じると同時に、すぐ 他人と比較したり計ったりします。自と他を比べることも、欲から 生まれます。自分のことが好きだから比べるのです。ですからマーナ(慢)もローバ(貪)と 共に生じる心所で、貪のグループに入ります。自分が好きで、自分の立場を守りたいという気持ちです。他と比べて見ることは嫉妬ではないかと思われるかもし れません。でも慢は嫉妬ではありません。嫉妬は怒りの心で、もっと破壊力の強い不善心所です。慢は嫉妬ほど目立つ悪行為ではないのですが、ジワジワと心を 汚していきます。人と比べなくても自分にできることをすればいいし、できなければやめればいいのです。他人と比べると生きるのがとても複雑で難しくなりま す。
       慢には、三種類あります。自分が他人よりだと考える、自 分が他人と同等と考える、自分が他人より劣っていると考える、その三つです。「自分はダメだ」 と思うことも慢です。それは、結局「私」という概念から出ています。あらゆる苦しみはすべて慢(マーナ)から出てくると言っても過言ではありません。でも この「私」という思いはなかなか捨てられません。人は皆「私」「私」と心を汚しながら生きているのです。

@ lobha(ローバ:貪)A ditthi(ディッティ:見)B mâna(マーナ:慢